私がエクメネを見に行った日のこと

 いつ見に行ったんだか、と思ってLINEのログを検索したら、12月10日に行ったようだった。その日に食べたパフェの写真が残っていた。
 『エクメネ』というのは、BLOCK HOUSEの地下展示室でやっていた、臼井達也・正直(時里充+小林椋)・マ.psd・竹久直樹の四組からなる展示だ。もともとはオンライン展示の企画で、実空間で行われる展示会(つまり今回の展示)に向けた制作の成果が、4月11日からの隔週ごとにアップロードされていた。
 そういえば、オンラインでやっていた展示の中身を一度も見てないかもしれない、というのを思い出しながら原宿に向かっていた。Twitterで告知が流れてくるので企画のことは知っていたし、面白そうとも思っていたし、知り合いの多い展示なので制作の近況を知るつもりでも興味があった、というか、アップローダーの画面までは行ったこともあった気がする。でも内容を見た記憶がないので、パスワードを入れるのが面倒だったのかもしれない、たぶんiPhoneで見てたから……。着替えてメイクして電車に乗るよりも、一画面戻ってパスワードをコピペするほうが億劫だとかいうのは、今更特別にも思えない話。


 地下展示室へ降りていく。部屋には段ボールが積んであったり、ディスプレイの電源供給に使われているらしきコードがやたら目立つ色でくるくると巻いて置かれていたり、広告や商品パッケージらしきビジュアルもちらちらと目に入る。どことなく、作品制作やその運搬や、展示設営の裏方らしいイメージが散りばめられた展示室だ。たぶん誰か在廊してるはずだけど、受付は入ってすぐには見えない位置にある。
 部屋に入るなり目の前に見えるのは、大きな養生テープの面だった。正直の作品*1だとすぐにわかる。養生テープをゆっくりと回転する軸にビビビと貼り付けて演奏をするバンドだ。映像では知っているけど、生演奏はまだ見たことがない。ともかく目立つこの作品は、入り口正面の壁に、見たことのない幅の養生テープのロールが、天井から床へ降りていくように貼り付けられているものだ。足元の小さな段差をじわじわと降りていくさまを想像してしまう。重そうなロールや気泡が、人間の限界を感じさせてくれる。ライブ後のような姿の巻き取り機*2も展示されていて、さまざまな色の養生テープが不規則に巻き付いたままゆっくりと回転している。軸の両端に三角形の金属板がついていて、なんで三角なんだろうと思っていた。展示室にある展示台はすべて大きさを統一して裸の木材で作られたものだったが、この巻き取り機だけは塗装された台に乗っていた。脇の辺が途中からゆるやかに折れてすぼまった形の台だ。もしかして台ではないのかもしれない。*3
 入り口近くに設置された作品の存在を思い出して振り返る。臼井達也の作品だ。キャンバスに張られた布に、わざとらしく鮮やかで、どことなく見慣れた感じのする画像が全面にプリントされている。一点*4は縦位置で床置き、壁に立てかけられている。もう一点*5は比較的小さく、たぶん、長辺が500mlペットボトルくらいのサイズ……大きさの表記には自信がない。私のお腹ほどの高さの展示台に釘で木枠を打ち付けられ、展示室に裏側を向けるように立っている。覗き込むようにして表の図柄を見る。おそらくAmazonで販売されている液晶ディスプレイの商品画像で、画面部分に埋め込まれたイメージ画像だ。展示室左側の壁にも、同じシリーズの大きな作品*6がかけられている。大きさはそれぞれ商品の実物大だろう。近くまで寄ると布の目がよく見えてきて、布には目というピクセルがあることに気づく。さらに目を凝らすと、インクが一本一本の系をグラデーションに染めているのが見える。臼井達也の作品ぽいものは他にもいくつかあるのだけど、散らばっているのでまだ雰囲気しかわからない。
 展示室入り口から見て右手の壁には、縦位置のディスプレイが2台並んでかかっている*7。2台のうち左側には夜の川を写した写真、そして右側には三脚を構えた人……竹久直樹だ、が映っている。かたわらには、なにかのスタンド(機材に明るくなくて名前はわからない)に取り付けられたスマートスピーカーが、私の腰より低いくらいの高さで設置されている。そこから風とか川の音とかが聞こえて、ときおりシャッター音も鳴る。カシャ。なるほど、右側に映る映像は、左側の写真を撮影したときの作家の姿だ。もう少し複雑な仕掛けがありそうだけど、展示全体をひととおり見てから戻ってきたほうがいいような気がして、これはいったん保留にした。
 左奥の角に置かれた展示台には、マ.psdの制作した写真集が何冊か置かれている。1ヶ月単位で編集しているのか、撮影月らしきナンバリングが表紙に表記されたもの(表紙に書かれていた『Record There』がタイトルだと思う)が3冊と、もう少しページ数の多い『There』合わせて4冊。どれも装丁は同じ、シンプルなデザインに簡単な製本。撮影月単位の製本やRecordというワードからは、日記帳や家族アルバムのような個人的な記録物が連想されるけど、それはすぐに裏切られる。写真というよりはむしろ、「画像」として見えるような奇妙な空気が漂っている。多くの写真はオブジェクト単位でクローズアップされて状況はわからず、その連続から生活が見えてくることはない。別のカメラで撮ったものや、デジタルズームで画質が落ちたものをごちゃ混ぜに含んでいるのだろう、質もばらばらだ。
 受付カウンターの端に、A3サイズで両面印刷されたハンドアウトがあった。片面には展示室のマップと作品タイトルと販売価格の一覧、もう片面には、テキストが表示されたウィンドウのスクリーンショットが並んでいる。文章の詳しい内容は後で読もう、とか考えて(また保留だ)紙を裏返し、地図と空間を照らし合わせる。私はひどい方向音痴なので、描かれた地図と自分の立っている空間を一致させるのにいつも苦労する。紙をぐるぐる回して部屋の方向を確認する。受付に在廊する竹久さん(かれは大学のひとつ上の先輩だ)に自分の方向感覚の貧しさを露呈するようで、やや恥ずかしくなりながら……。


 作品リストと照らし合わせて作品をひとつずつ見ていく。
 《There》が置かれているすぐ近くの壁面にも、写真集に使われている写真のプリントが貼られている。その隣には、CGで作った部屋の写真……詳しく言えば、CG空間内でシミュレートされたカメラアイのキャプチャ画像のプリントだけど、マ.psdの写真と同じ縦位置のL判で、フレームに入っていて、やはりそれは「写真」に見えた……が展示されている。こっちは竹久直樹の作品《Still-Life》だった。
 段ボール箱が無造作に積まれたような箇所が展示室にふたつあり、片方がマ.psd、もう片方が臼井達也の作品だった。マ.psdの《A part of my room》は、《Exif》近くの壁際にだいたい私のお腹ほどの高さで積まれた段ボールの、一番上が開いて、写真プリントががさがさと入っている。プリントされている写真は《There》にも含まれていたもので、選定やテストに使ったプリントの余りを詰めたような佇まいだ。臼井達也の《拡大鏡10倍LED拡大鏡化粧鏡LEDミラー卓上ミラーLED》は、配送パッケージ型のオブジェと商品ページのスクリーンショット画像のプリントをセットにしたシリーズのひとつだ。Amazonで販売されている商品の画像にほどこされた演出を再現し、実際の配送に似せてラッピングしている。
 入ってすぐのところに置かれているはずの、作品リストに《Dual Display》とあるものが見当たらない。よくよく地図と位置を照らし合わせて見ると、該当する位置には消毒液のスプレーがふたつ、シュリンクラップで合体されて展示台に乗っていた。そういえば、部屋に入ってきたときには見えていたことを思い出す。そのときは作品だと思って触らなかったのに、作品リストを見ながら探すと備品の消毒液に見えてしまった。隣の柱にはポリ手袋を着けた、たぶん撮影者自身の手の写真。ネイルが塗られてる。
 その奥にもう一点、照明の当たっていないところにひっそりと、正直の《ライブテープ(Mサイズ)》がある。タイトルからしてライブ後のテープを剥がして固めたものなのだろう、それが臼井達也の作品に似て(というかAmazonの配送に似て)ラッピングされている。こうパッケージされて値段がついていると、なんだかお土産みたいだ。大きなライブに行くと、金色のテープが降ってきたりすることも思い出す。あれもライブテープだ。そういえば臼井達也の作品は価格が1円や10円単位で設定されていて、引用された商品と同じ値段なんだろうと思う。販促に最適化された数字の並びは、美術展示のプライスリストに似合わずノイジーだ。
 《55V型 液晶テレビ(Wチューナー、日本メーカー 製、HDD録画対応、BSCS対応)》の隣にもマ.psdのプリントが貼られている。大きな布地にプリントされた陸上選手の足、小さな写真プリントに写った撮影者の素足。
 《Exif》のノイズ混じりの川の流水音が、養生テープをロールから剥がす音として、ふと幻聴される。左側の足元には《レディースシェーバー女性用シェーバーボディシェーバー》の商品ページでシェーバーが薄桃色のしぶきをあげ、右側の壁には真空パックされた薄桃色の水が、商品の外箱とともにパッケージされている。


 部屋に置かれたものをひととおり作品リストの通りに確認して、ハンドアウトを裏返す。臼井達也はテキストエディット、竹久直樹はTextwell、マ.psdはPDFファイルを開いたプレビューを、ウィンドウごとキャプチャした画像だ。正直はかなり縦長のスクリーンショットで、おそらくGoogleのなにかのサービス*8……を使って共有されたノートらしい。他に比べるとかなり大きなサイズの画像を縮小して載せているので、顔を近づけないと文字は読めない。突っ立って読みふけるのもなんだか変なので、展示室をなんとなくうろうろと歩いて作品と見比べながら読むことにする。
 臼井達也のテキストは、前半は作品の前提としている現代のイメージ環境の説明、後半は今回展示されているふたつのシリーズの射程を簡単に紹介したものだ。誇張された広告画像が並ぶ通販サイトは私にとっては馴染み深い環境で、テキストを読まなくてもすぐに理解できた。世代や文化圏が違うと多少は変わるかもしれないけど、この作品を目にする人のうちにAmazonを見たことがない人は少ないだろう。
 マ.psdのテキストはテキストエディタのスクリーンショットではなく、一度なんらかのソフトウェアでデザインされたもののプレビュー画面だ。内容は、ほとんどを家の中で過ごしたという撮影期間について書いた短文と、写真集の編集ルールを説明するものだった。《Record There》はやはり1ヶ月ごとの編集で、展示が終わっても制作が継続されるという。
 正直のノートは、オンライン展示中にアップローダーで公開されたものの一部なのだろうか、日付が入っていて、内容も近況報告らしかった。ケバブとバウムクーヘンの動画の埋め込みが並んでいる。
 竹久直樹のテキストは、その画像が紙面の約1/3の面積を占めるほどに長い。テキスト内で「今、私が」と語られる内容はどれも《Exif》の映像や展示内容と対応しているから、この作品に付随したテキストなのだろうと思う。内容はロケーションや、写真・撮影にまつわる歴史上のできごとについて、リサーチをまじえた作家のエッセイ的な語りだ。そういえばさっき鑑賞を保留していた私は、テキストを眺めながらまた作品の前に戻ってくる。右側の映像に映る竹久直樹はふらふらと動いている。シャッター音は鳴るけど、映像を見ていても今撮ったな、という感じはしない。シャッター音の前も後も、時間はだらだらと連続している。
 ハンドアウトに掲載されたテキストは、どれも作家から提出されたものではあるようだが、フォーマットや役割はそれぞれに違ったもののように見える。それらは作品と、または展示と、どんな時間差で書かれ、どんな関係をしているかはっきりとは判別しづらく、しかしともかく、今は隣り合って見せられている。
 今、私が……西村が書いているこのテキストは、この展示、エクメネを記録するもののひとつとして、竹久直樹から依頼されたものだ。依頼の内容は、展覧会を記録するものとして、観客視点で感想を書いたテキストを用意したいというものだった。
 2016年に発表された竹久直樹の作品で、女性のモデルを写した一連のポートレート写真と、そのモデルがその日のことについて書いたエッセイで構成したインスタレーション作品があったのを覚えている。作品のことで間違った情報を書いてはいけないと思ってウェブサイトを確認してみると、その作品のアーカイブは掲載されていなかった。私がタイトルを忘れてしまったこの作品、個人的には気に入っていたのだけど、竹久直樹がウェブで公開する自らの活動記録からは、今のところ省かれている。
 撮影者がファインダーを覗き、みずからの視界をカメラの画角と一致させているかぎり、ファインダーを覗き込む撮影者の顔をカメラは記録することができない。展示を記録に残そうと目の前の作品にカメラを向ければ、レンズは自分に背を向けるのだ。だけど展示室は私の周りをぐるっと取り囲んでいて、私が見ているこの瞬間の展示室から、私がいなくなることもできない。そして鑑賞経験から鑑賞者自身を消去することが到底できないだけでなく、その経験を記録するとき、経験をふりかえって描写する記録者自身を消去することもまたできない。
 カメラを構えた自分のすがたを自分で捉え、その自分をまた描写する。さらにそれを記録し、さらにそれを……竹久直樹の活動は、記録と経験のジレンマに挟まれた、終わりなきセルフポートレートの試行であると思う。そしてそのループに揺さぶりをかけるため、「コントロールの範疇を超えたもの」、他者は呼び込まれる。
 受付に在廊していた竹久さんになにげなく声をかけて、いくつか質問をしているうちに、いつのまにか話題は展示から離れていく。最近興味のあること、考え中のこと、お互いの近況、共通の知り合い、暮らしのこと、最近見た展示のこと、隣にある美味しいパフェの店のこと……気がつくと1時間くらいだらだらと話し込んでしまっていた。
 閉廊時間が近づいていたんだったか、私はそろそろ退散することにする。たぶんまた来るな、と思ったので、たぶんまた来ます、と言って展示室を出て行った。

2021/02/06